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来年9月の市役所移転が心配です

 「つづきはあすにでも書きます」としながら、もう一週間以上も過ぎました。その間、いろいろありましたが、今心配なのは、当局と議会との対立が表面化し来年9月の市役所移転が遅れはしまいかーです。

 私は「来年9月に市役所を駅前のさくら野ビルに移転」は双方の至上命題と認識しています。そのためには、建物の工事をそろそろ発注しなければなりません。本来なら26日開催の臨時議会に予算を提案すると言う段取りだったのですが、議場の「階段状固定式」(議会が検討委員会で協議し、当局に伝えた案)か「フラット(平ら)で移動式」(市当局が市民の意見を尊重するとして出した案)かで当局と議会が決裂し、予算提出が見送られました。

 実は、その予算に電算関係の構造物に関する費用も入っていましたが、それこそは11月中にでも発注しなければならないと言う内容のものでした。仮に12月定例議会で予算が通るとすれば、会期末(20日以降)になりますので、かなりの遅れが予想されます。それは「9月移転」に暗雲が立ち込めてきたことを意味します。そこで、何とか「別枠で、早めに通せないか」と水面下で協議していますが、切羽詰った動きだけに今後が心配です。

 取れあえず、今日はこの辺で…。ただ言えることは、双方の意見の違いはこれまでの議会内では、議長を除き1518でしたが、今回の件ではは034です。この現実は今後もほぼ変わりようがありません。

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市議会議場の活用について

 今朝(19日)の地元紙一面トップは「石巻市庁舎 市民共有型議場で対立 唐突提案に市議会猛反発」の見出し記事でした。私も18日午前中から、途中の議員研修会(多賀城市会場)を除いて夜の7時過ぎまで、この問題について情報を収集したり、会派(ニュー石巻=阿部欽一郎会長など会員6人)での話し合いを持って来ました。会派としては、議会の会派代表者で構成の新議会棟検討委員会(委員長=黒澤和雄副議長)が意見集約して当局に提出した「階段式議場」を曲げないこととし、今後の情勢を冷静に見続けて行きたいーと当面の態度を明確にしました。

 それにしても新聞の見出しにあるように提案は唐突でした。私は新庁舎利活用の市民懇談会の会議(4回開催)を2.回と半分傍聴してきましたので、懇談会の空気を分かっているつもりです。確かに議場をフラット(平に)にして、椅子と机を動かすことで、市議会が開かれていないときはコンサートや研修会、講習会など多目的に使うとしていますが、それはいいアイデアだと思います。議会の本会議は会期中を全部使ったとしても年間100日足らずですから、どんどん使ってもらうことには、大歓迎です。

 しかし、そのたびに、机と椅子を格納して新たにパイプ椅子を出して並べて、使った後に、また議場の雰囲気に戻す作業をすることは、結果的に利用しにくい施設として、議場活用の長続きはしません。それは、千代田区などでの実態報告でも明らかになっていました。階段式でも、フラット式でもいいのですが、議場内の椅子や机を動かすやり方ではなく、固定の椅子と机がある議場をどう活用するかが、私は問われていると思うのです。

 固定式の中でも議場はマイクと映像の設備がありますので、質の高い市民討論会、研修会などに使えるし、それこそ子ども議会を行いながら、市内全校へのモニターテレビ画像への生中継も可能です。インターネットを活用して、議場と学校を結んでの多角的に児童生徒が参加しての「石巻の夢を語る子ども議会」が開けます。

 固定の椅子と机でもコンサートは可能です。たとえば市P連総会を議場で開き、引き続いて「市長、教育長を囲む教育談義」を開くのもいいでしょう。議員にはPTA役員経験者が結構いますので、議場を使った総会をきっかけとして、立候補の意欲が出てきたという人がいても、それもいいことではないでしょうか。

 議員の多くが「唐突」と感じた要因に幾つかがあります。それをここでは取り上げません。ただ、私は議員が語る「拙速」「議会軽視」「説明不足」と言う当局を批判する言葉を好みません。提案は早いほどいい、軽視や説明不足も情報収集が足りないーと思い、そうした言葉を口にしないことにしています。しかし、市民懇談会などにも足を運んできた身からしても、今回の当局の提案は納得できません。続きはあすに書きます。

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出雲の神様の思し召し? 出会いの研修

 14日まで、山陰地方を行政視察してきました。具体的には後にお知らせいたしますが、最終日の14日の午前9時半ごろ、訪問先の山口県萩市の博物館会議室で、突然「石巻市と言えば、わが町出身の川村孫兵衛さんのご縁があり」と述べられ、一瞬ドキリと致しました。孫兵衛翁が「長州藩士」であることは知っていましたが、萩との絡みを意識していなかったため、正直驚きました。何しろ、孫兵衛翁は伊達政宗公の命を受け北上川を開削し、石巻港を開いてくれた人で、大恩人。毎年夏に開かれる川開きは孫兵衛翁に今日の繁栄を感謝してのイベントですからね。

 その席上にゲストとして、萩市観光ボランティア協会の中村芳生会長がお見えになり、平成1499日に掲載の石巻日日新聞の記事コピーを示し、「6年前お世話になりました」とあいさつをいただきました。中村さんは8年ぐらい前に偶然、「仙台の運河を掘った人が萩市三見の出身」と言う文献を知り、いろいろ調べた後に仙台、石巻への調査の旅を行い、川村孫兵衛にたどり着き、「萩ではほとんど知られていないが、北上川の開削など多大な功績を残し、石巻市民に感謝されていることに感動した」と語っていました。

 その後、中村さんは地区の公民館だよりに「孫兵衛と石巻」を連載するなど、萩市内で孫兵衛翁の功績を伝えてきたといいます。その成果でしょうか、その後に訪問した伊藤博文公別邸で観光ボランティアをしていた男性も孫兵衛さんを良く知っていました。「サンファンと支倉も石巻だったね」など、萩ものしり博士のこの男性(ご当地検定で55人の認定)は「さすが」でした。それも中村さんのお陰です。

 そんなわけで、私たち「石巻市議会ニュー石巻」の会派研修は、地元のケーブルテレビ(萩ケーブルネットワーク)の取材を受ける形になりました。私は記者のインタビューに答えるなかで「孫兵衛さんが意識にありませんでしたので、ここに来て、大変驚きました。孫兵衛さんの北上川の開削事業は単に水害から人々を守るだけでなく、優良な水田開発にも貢献し、しかも河口の石巻市を奥州一の港にしました。藩政時代、孫兵衛さんが造り替えた北上川を利用して、仙台藩、南部藩などのお米が石巻に集積され、町はにぎわいました。そのお米は石巻から海路江戸に運ばれ、本石米として江戸100万市民の半分以上を占めることになりました。ですから、孫兵衛さんは石巻市の大恩人です。毎年81,2日に開かれる石巻市の最大イベントである石巻川開きでは、孫兵衛さんへの報恩感謝から始まります。イベントの前に関係者が墓前に花を手向けています。萩市とは運命的な何かを感じました。今後、交流ができるといいですね」と言いました。

 萩市は、関が原の戦いで破れた安芸(広島県)の毛利氏が移られて、毛利家3代輝元公が築いた城下町です。幕末に吉田松陰ら勤皇の志士が活躍する場となります。つまり、いまNHKテレビ「篤姫」に盛んに登場の長州の拠点が萩でした。松陰は実は嘉永5年(1852年)36日に石巻に来て、日和山に登り市街地と海を一望、宿泊しています。そのにぎわい振りなどの感想を「東北遊日記」に記しています。古の縁が今に通じていることを感じました。なんだか、朝の連続テレビドラマの主題歌そのままな感じです。

そう言えば、前日の宿泊地は出雲市でした。出雲大社だけは「神在月」だそうです。萩との関係は縁結びの神様の思し召しでしょうか。もう一つ、縁がありました。出雲の夜の食事で隣り合わせたグループの1人の女性がナンと石巻市の出身でした。「錦町の生まれで、山下小、石巻中、石巻女子高の出身」でした。ほんの数分でしたが、歓談しました。八百万(やおよろず)の神々様、ご縁を「だんだん」。いい研修と出会いをいただきました。

018 行政視察研修にテレビカメラが入りました。その後、私(今村)は記者のインタビューを受けました。

なお中央でお話しているのが、かつて石巻を訪れた観光ボランティア協会長の中村さんです

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またまた「一週間のまとめ書き」です

    

今回もまた「一週間のまとめ書き」です。お許しください

       知人の訃報相次ぎました

今夜も知人の通夜に向かいますが、今週も先週と同様お二人とお別れを致しました。うち3人は私と同じ年でした。生者必滅は世の倣いとは言え、近親者にとっては辛い別れであることが、伝わってきました。

         地域のパワーを見たソフトボール大会

 文化の日の3日朝、稲井中学校に出向き「第12回まつたけ杯ソフトボール大会」を覗いてきました。地域を挙げた催しであることが、大会プログラムや用意された賞品、あるいは実行委員会のメンバーの数や動きから、すぐに分かりました。

 参加した中学校は地元の稲井中のほか、仙台の五城中、塩釜三中、鹿島台中、津山中、それに近間の河北中、女川一中、山下中の八校でした。途中、稲井のお母さんたちが作ったトン汁を食べながらの交流もあり、ソフトボールを通じて友情も生まれたと言うことでした。

          コンテナ船の上から見た風景

 5日午後、石巻工業港へ。そこに日本通運のコンテナ船「うらが丸」(宮本清治船長、5818トン)が入港していました。この船は高松、水島、大阪、苫小牧、釧路を経て石巻に寄港し、四国の高松に戻ると言うコースを一週間のサイクルでたどるものとして、この日初めて石巻に立ち寄りました。つまり、初就航なのでした。

 この日から、毎週水曜日に日本製紙石巻工場からコンテナ100個(500トン)の荷を積み関西方面に海路輸送することになったのです。コンテナ船の就航は画期的なことです。今後が大変楽しみです。

 就航の歓迎セレモニーのあと、船内見学をしました。今年は夏以降、帆船に乗ったり、護衛艦にも乗船、そして今回のコンテナ船と、大きな船に縁があります。コンテナ船の操舵室は高いところにあり、そこから観た港は格別です。「オッ、港は生きている。息づいている」―。実際には目にすることのできない工場内で働いている人の姿まで見える感じがしました。

港って、まさにゾクゾクですします。オカでは感じない魅力が船に乗って分かります。「この風景は、古里を学ぶ上で欠かせない」と感じました。同時にそう感じるのは、原風景として港を持っているからでしょう。幸せなことです。

考えてみると、海や港を抜きに石巻の過去も今も語れません。支倉常長やサン・ファン・バウティスタ号、江戸への東回り航路の拠点港と千石船、さらにフランク安田や高橋英吉を生んだ土地柄、一夜で消えた野蒜築港、命を懸けて北洋の漁場を開拓した男たち…。どれも海に扉を開いた町の歴史です。それは海や港が、町づくりや人づくりの原点にあるということなのかも知れません。ふと「港は母の懐かな」と感じました。石巻港に、そんな躍動的であったかいイメージが広がっていました。

          議会関係の動きもありました

 4日午前9時30分から開催の会派代表者会議に、代理で出席しました。30分前の要請に慌てましたが、どうにか滑り込みセーフで会議に出席できました。議題は7日の本会議のあとに開かれる全員協議会の持ち方でした。これまでの全員協議会は{当局の話を聞きおく程度」でしたが、議会改革の一環として協議会の前に会議を持ちどうするかを決めることになり、結果的に「事前協議にあたらないように、その後開催の特別委員会に配慮するように、質疑を行う」と言う感じで、取りまとめられました。

その日午後1時半からは、議会運営委員会が開かれ出席。その後の会派会議でそれら会議の報告をしました。また、10月に実施のそれぞれの常任委員会の報告や、会派で11月中旬に実施の行政視察についての事前訓集などを行いました。

7日は午後1時から、市議会臨時会が開かれました。ペアーレ石巻を石巻市が入札に参加して取得することになりましたので、その関係条例と予算が提出され、いずれも可決されました。

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連休の初日二母校とお茶へ

 三連休の初日である11月3日、午前中母校の住吉中学校へ。そこでは生徒会が中心になっての「住中祭」が行われていました。テーマは「我愛住(ウォ アイ ジュウ=我らが想う 愛今ここに)」。体育館に入って最初に聴こえてきたのは「大河讃頌」(同級生の和泉耕二氏作曲)でした。校内合唱コンクールの一年生の課題曲として歌われていました。

 この曲は「住中讃歌」(恩師の太田昭氏作曲)が挿入された組曲です。コンクールでは、讃歌を歌い上げるまででしたが、同窓生にはジーンときます。と同時に「一年生の課題曲として歌われ、ずっと受け継がれる」と思ったとき、学校に感謝の気持ちがわきました。結果的に一年生だけの合唱を聴いただけでしたが、体育館の壁いっぱいに展示の研究発表に「後輩たちは、がんばっている」と認識して帰りました。

 お昼をかけて文化センターへ。ここでは第15回石巻市芸術文化祭参加の茶会が開かれていました。この日は裏千家石巻同門会主催で、あす(2日)は表千家石巻教授会が主催となります。至福のひと時、いや足がしびれて、苦痛のひと時?それはご想像にお任せいたします。

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