大震災から10カ月

 確か大震災から5カ月の時も書いたのですが、何人かのお葬式に参列し、お別れをしてきました。しかし、正直なところ、行きそびれたところが、いっぱいありました。余りにも多くの方々がお亡くなりになり、こちらの空いている時間帯と、懐具合を勘案しながら、お焼香をさせていただきました。
 そして、今日、大震災から10カ月。早いものです。この間も、お葬式がいっぱいありましたが、その席でお互いの無事を確かめ合うことの多さも知りました。遠くに避難していた人が復旧した家や新たに設けた家に、あるいは「しばらくは仮設住宅で頑張る」という人まで含めて、避難先から戻ってやすらぎのひとときを迎えられるようになったことが、再会につながっています。

 改めて、時間を見つけては被災地の今を、カメラに収めています。「今を撮る」とはいいながらも、シャッターを切るのは「悲劇の一こま」ばかり。寒風吹き抜ける家や水に浸る横倒しの家、瓦礫の仮置き場になった公共施設、流された線路、水浸しになった道路や田畑、路面の亀裂…。
 なかなか、一年前の姿には戻れない。戻りたいけど戻れない。戻らないで前に進むこともできますが、前途もまた暗雲が垂れ険しい道です。震災10カ月は「雇用保険が切れる時期」とも言います。勤め先がほしい、お金が欲しい。現実はなお厳しいようです。写真で見る悲劇の一こまや痛々しい傷痕よりも現実の方が、はるかにつらいかも知れません。
 しかし、私は大丈夫。能天気が幸いしているようです。少々のつらさも「明日があるさ」と、苦にしないことにしているのがいいのでしょうか。明けない夜はないし、苦あれば楽と信じています。もっと、気楽に。のんびり、焦らずの気持ちも捨てがたいものがあります。
 こうした発言や記述は、政治から離れたから言えることで、書けることですね。政治の立場にいて、災害での人の死を「運命」などと言っては、政治家失格。ただし、バッジを外して一人の人間に戻れば、正論かも知れない。

| | コメント (0)

スマホで入力

パソコンの調子が悪く、今日はスマートフォンで入力してみました。案外、うまくいくものですね。
勤めの方は2日からはたらきづくめ。胃袋の方も休みなし。懐の方はずんずん寒さ厳しくなってきました。
今週末も新年会が待ってます。
ここまで入力して気づきました。こまい作業です。目が疲れます。この辺で
やめますが、いずれもっと長い文に挑戦してみたいと思います。どうも行替えがうまくいきません。

| | コメント (0)

二つの年賀状書きました。今年もよろしく

 あけましておめでとうございます
 大震災の年の終わりに準備する年賀状を出すかどうか迷いましたが、出しました。夫婦連名と個人名の二つですが、特別な意味はありません。あえて言えば、夫婦名では震災の下りがありましたが、個人名では何故か避けました。以下を示し、本年のごあいさつに致します。
《今村の平成24年 年賀状その1》
孔子は「50にして天命を知り、60にして耳順」と説いたようですが、いまだに人の言うことに異を唱え、素直になれない自分がいます。ところが、近ごろ変化が訪れました。それは、どうやら大震災と無縁ではなさそうな気がします。
 あの大震災で幸い家は流されませんでしたが、罹災証明では「全壊」扱い。泥との格闘がありましたが、どうにかこうにか修復し自宅に戻ったのが、11月下旬。あれだけのことがあると、夫婦は案外近年になく協力的になるものです。お互い「ああ言えば、こう言う」だったのが、年金受給の年齢とともに「耳順」になったようです。
 夫は、大崎市通いで好きな新聞づくりを。妻は孫育てを楽しみながらも悪戦苦闘を。わずかの時間を見つけては家の中での幸福探しを。一年の初めに感じました。今年もよろしくお願いします。
平成24年元旦
981-0501 
宮城県東松島市赤井字川前弐238-34
              今村 正誼
                 幸子

《今村の平成24年 年賀状その2》
若いころ、「龍」のつく名前がうらやましく思いました。「龍虎」というぐらいですので、強そうでした。正月に天高く舞い上がるのは「龍」の字が書かれた凧と信じ、昇り龍の絵にぞくぞくしたものでした。
だから、辰年には飛躍を期待しました。登竜門の言葉から、チャレンジの年と意気込んだこともありました。しかし、今は「竜頭蛇尾」に終わるのが明白です。新しい挑戦も長続きはしないでしょう。
「龍」への憧れは、英傑や名声への願いや夢と無縁ではなかったような気がします。しかし、もう還暦。孔子が言う「耳順」の年。何時までも龍に憧れてばかりはいられません。
今となれば、「名は体を表す」を実践したいという気持ちでいます。「正しく」、そして「誼(よし)み」の精神で…。誼みは「親しい交わり」です。打算ではなく、人としての交流が、つきあいが正直にできればーと念じています。何はともあれ、今年もよろしくお願いいたします。
平成24年元旦
〒986-0872 石巻市田道町1-1-33
    今村 正誼(大崎タイムス社 編集委員)

| | コメント (0)

補欠選挙はやめるべきだ

 議員から離れて思うことが結構多い。それも、職にいたときとは正反対を感じることが少なくない。制度の改正も伴うが、議員定数と補欠選挙にはどう考えても、世間の常識とかけ離れた議論がなされているようだ。

 

石巻市

議会の定数は34人。法定定数通り。市民から「6人減」の請願が提出され、減らすことで審議を継続している。それはそれで、前向きでいい。外から見ると、請願の通りでも良さそうな感じもするが、この際数字への言及はしない。ただし、確実に次の選挙からは減らすこと。

 ここで、一つ問題がある。次の選挙とは25カ月後の平成26年5月の定時選挙のことだが、その前年(平成254月)に市長選があり、市議の補選がある。正直言って、やめた方が良い。根拠を挙げるとすれば、まず3人欠員だが、端から見れば議員数は「足りている」。いずれ減らすのだから、増員する必要はない。

 一般の会社に置き換えれば、当たり前の論理だ。無給ならともかく、給与とそれ以外の掛かりを考えると、議員一人当たり年間1000万円は下らない。一年任期で何ができるというのか分からないが、3人合計で3000万円の税金の支出は、この非常時にもったいない。仮に、2年から3年の任期があるなら、十分責務を果たせるかも知れないが、一年では「翌年の改選」にしのぎを削る期間になる恐れが十分だ。

 理想は、市議会で早々に現行定数を3人減の31人にする。補選を行わないための定数削減だ。その後に、次の定数は改選期に30人にするとか、28人にするとか、それ以下にするとかを決めるといい。

 と言っても、現実の地方自治法が認めないらしい。それなら、石巻から発信すればいい。「被災地の選挙特区」のような形で、総務省へ働きかけるのはどうだろう。ついでに、二元代表制にとらわれず、議院内閣制で臨むなど議会改革を打ち出し全国にない議会例を示すのも面白い。

 現実に、災害復旧で短期間に膨大な予算が付き、事業推進のために専決処分や随意契約による公共事業の発注が目立っているという中、議員も当局の一員に入って事業を進める一方で、チェックもするという国会のような地方議会のほうが、被災者の利益になるような気がする。

 国会の一院制と議員500人以下のニュースを今朝聞いたが、依然として霞の中にある地域主権型道州制を考えると、国会改革も余り期待はできない。国会も地方議会も当事者の議員が改革を示し、決めることなのだが、その実効性は乏しく、いつものろい。バッチを外したら、やたらとスローモーさが目につく。

| | コメント (0)

寒い朝に感じたこと

 寒い朝が続いています。今朝も4時に起きて、ベッドの脇に小さなテーブルを持ち込んでやり残した仕事と取り組みました。ですから、朝の厳しい冷え込みを感じながらの作業の始まりです。それでも小さい部屋ですので、一台のストーブですぐに暖をとれますので、そう苦にもなりません。起きてすぐに身支度整えて外に出る仕事であったら、今の私にはもう耐えられないでしょう。

 それでも、夜明け直後には朝食をいただき、日が上がり始める7時には家を出ます。ずるをして休みたいとか、理由を付けてゆっくり行きたいとか、もう少し寝ていたいーとはあまり思わず、せっせと35㌔先の大崎市まで車を運転する毎日が続いています。

 冬至が過ぎた今日から、少しずつ日が長くなるというのに今朝も真っ暗で氷点下の寒さでした。天皇誕生日で世間は休日なのですが、妻に「送れないように」と、急かされるようにして家を出てきました。

 亡くなった談志さんの十八番「芝浜」では、恋女房に送り出された勝五郎が50両もの大金が入った財布を拾うことになるのですが、私には、幾ら早起きをしてもまだ50両どころか、3文の得にもならずにいます。

 そうこうしているうちに、2011年はもうすぐ暮れますね。大変な年でしたが、新しい「絆」も生まれたりで、生きていることに感謝しないとー。とは申せ、最後のビッグチャンスは、大みそかの宝くじ。「芝浜」のように正夢にはならないものかー密かに期待しているのですが…。

| | コメント (0)

我が家に戻って3週間

 11月下旬に石巻市の借家から、東松島の自宅に戻って3週間。やっと、快適さになじんできました。石巻では、わずか6畳2間の借家に多いときには孫も含めて5人も一緒に寝泊まりして暮らしましたが、妻の実家が近くあり何かと便利でした。その点、郊外にある自宅での暮らしは、部屋数や居住スペースなどは段違いなのですが、なにか寂しさがありました。30年以上も住み慣れた家でしたのに、すぐにはとけ込めなかったような気がしていました。

 何故でしょうか。私自身は、昨年の秋まで石巻に6年間、単身(たまに妻が来ますが)で暮らしていました。ですから、自宅に戻って半年足らずで東日本大震災に見舞われ、再び石巻に住む格好になりました。今回は引っ越しの仕切り直しのような形で自宅への帰還でした。ところが、自宅周辺は行政が発行する罹災証明でいう「津波による全壊区域」だけに、あちこち家が取り壊されて皿地になり、寂しい雰囲気なのです。

 今の私は朝早く出掛け、日が暮れてから帰る身。知り合いの家も復旧の最中にあり、お邪魔のようで家の周辺を出歩かないようにしています。

 ですから、家の中での生活の全てが居心地の良さを感じるバロメーター。お風呂の沸き具合、ベッドでの寝心地、TV,DVD,CDの視聴環境、食卓に並ぶ食器のの数など、借家時代と比べどれも格段とアップしています。その環境に3週間を経てどうにかなじんできました。「家はいいもんだ」。口に出せるようにもなりました。お風呂で千昌夫さんの新曲「いっぽんの松」も歌え、借家では出来なかった我が家の良さをようやく実感できるようになりました。

 パソコンの調子が悪く、入力に時間がかかります。本日はこの辺で。

| | コメント (0)

メロディの翼について

  30日午後、車に2人の女性を乗せて、石巻市橋浦小におじゃましました。標題の「メロディの翼」(代表 浅田 釵子=あさだ さいこ)とは、エールフランス航空日本支社の旧女子職員有志からなるボランティアグループだそうです。東京で2度のコンサートを開き、その収益金で被災地の学校にピアノを贈ろうと運動を展開しています

 車に乗せた女性とは、代表の浅田さんと、石巻市出身でかつて外交官夫人としてパリに長く住んでいたという今村憲子さんです。2人は橋浦小にトラックで搬入されるグランドピアノを見届けながら、翌日のピアノ贈呈式の打ち合わせにやってきたのです。私は、ただの「アッシー」として、2人を学校まで案内してきました。

 本日1日の贈呈式では、橋浦小学校と水明保育所でピアノ寄贈記念コンサートが開かれることになっており、東京から、ピアニストの和泉真弓さん(石巻市出身の大阪音楽大学教授、和泉耕二さんの奥さんで、石巻市の子どもたちにハンドベルを贈ったり、演奏会を開いてきた女性)が、今回も駆け付けてくれました。

 実は、ピアニストの夫の和泉耕二さんと今村憲子さんは住吉中の同期生です。私も同じです。今回の地震津波ではいろいろな方が石巻を訪問しています。何かの縁をつないで被災地へと足を向けていただいています。ありがたいことです。メロディの翼代表の浅田さんは、居住地がパリですので、2度も日本に。そして東京から仙台に新幹線で、さらに仙台から仙石線を高城で乗り換えて石巻まで来てくれました。お疲れ様です。

 30日は、午後から2人の足になりましたが、1日は早朝5時から新聞の紙面づくり。とても無理なので、友達にお願いしましたが、「アッシー君」になったのは、我々と同年代の男性。朝早くに和泉真弓さんを橋浦小まで送り、演奏会の後今度は3人の女性を水明保育所まで送るというものでした。パリのユネスコで演奏経験を持つ真弓さんも加えて、女性3人は「パリ娘」? 彼にとっては、楽しい運転ボランティアになったと思います。

| | コメント (0)

「石巻・わがふる里」という歌

 「近いうちに、また続きを」と書いて今日がその次の日、続きを書きます。私としては珍しいです。

 標題にある「石巻・わがふる里」とは、大阪音楽大学の教授で、私とは石巻市住吉小中、石巻高校で同級生の和泉耕二さんが作曲した曲のタイトルです。作詩は、石田邦彦さんと言って、3つ上の先輩。5年くらい前に、関東方面にある中学校の同窓会で「東京住中会」という組織がありますが、そこで愛唱歌として歌ったのが始まりでした。

 実は、8日石巻グランドホテルのロビーで開かれた大阪音大コンサートで第二部として、クラリネットアンサンブルに音大の声楽部の学生8人が加わって合唱を披露してくれました。震災後によく歌われた「見上げてごらん夜の星」や「上を向いて歩こう」「ふるさと」などの愛唱歌のほか、「石巻・わがふる里」の楽譜が渡され、みんなで歌いました。

 歌詞には「まんかいのはな いしのまき ひよりやま」や「ゆうきゅうのかわ いしのまき きたかにがわ」があります。最後は「せいしゅんのゆめ いしのまき あつきとも わがふるさと」で終わります。声楽部の女子学生の何人かは、もう涙声でした。私たちも、目頭を熱くしました。最後の歌詞はもう少し長く、漢字で書くと「それぞれの過ぎ去りし日々 振り返る四季の絵の中 この街に生まれ育ち 先をゆく友人(ともびと)思う 夢 夢 青春の夢 石巻 熱き友 わがふるさと」となります。震災前の美しい石巻の風景を知っている私たちとしては、こみ上げてくる思いとともに涙腺を緩ませるものでした。

 学生さんたちの涙は、石巻市への愛着の証のようなものだったのでしょうか。演奏旅行の合間に登った日和山と、そこから見た風景から感じ取った思いが、石巻市民と向かい合って合唱したことで、「もらい涙」になったようにも感じました。いや、涙を流し始めたのは学生さんが最初で、こちらがそれに感動してつられた感じだったかも知れません? 今となれば、どちらでもいいのです。要は、ミニコンサートでしたが、感動的なシーンがあったということです。

 多分、演奏した学生さんは、東北へは何度もきた経験はなかったと思います。関西から見た東北は、石巻市が東北のどの位置にあるかはっきり分からないと思います。私たちも石巻から見た広島県のように、呉市と福山市、尾道市、広島市がどう並んでいるか、分かりません。音大の学生さんも、花巻市と釜石市、石巻市をごっちゃに見ていたかも知れません。それが、あの涙でもう明確になったと思います。

 ぜひ、石巻市での体験を音大で学ぶ仲間の学生さんたちに伝えてください。それぞれの郷里の親や友達に教えてください。就職して、大阪を離れてどこかに行ったら、そこで石巻市のことを話してください。いつか、またあの美しい石巻市に戻ります。その日を楽しみに、忘れないでください。

 2日前、映画「エクレール お菓子放浪記」を見てきました。ラストシーンは日和山でした。震災前に、石巻市を中心に宮城県をロケ地に選んだ、この作品は、主演のアキオ少年役の吉井一肇さん(12歳)が中国最大の映画祭で主演男優賞を獲得したことでも話題になっています。ぜひ、全国の皆さん、見てください。

| | コメント (0)

スウィングジャズ

 2週間も前になりますが、大阪音楽大学の学生さん30数人が、石巻市を訪れ、小中学校など10カ所でクラリネットアンサンブルによる演奏会を開いてくれました。私は2週間前の8日夜、石巻グランドホテル・ロビーで開いた演奏会に同世代の仲間たちと一緒に足を運び、懐かしいリズムに心も体もうきうき。楽しい一夜を過ごさせていただきました。

 「スウィングジャズ」の定義は分かりませんが、音大生が演奏してくれたのはグレン・ミラーの代表的な「ムーンライト・セレナーデ」「イン・ザ・ムード」「茶色の小瓶」など。戦中から戦後に掛けて大流行したらしいですが、よくは知りません。ただ世界的なヒット曲というのは、最近の歌謡曲のようにすぐに消えて忘れ去られるものと違ってヒットの年月が長いですね。「スウィングジャズ」というか、グレンミラーの名前と共に、半世紀以上も演奏し続けられています。

 ところで、懐メロが流れると、何故かそのころの風景や周囲の人の顔が浮かんでくるものです。元NHKアナウンサーの中西龍さんは、ラジオの歌の番組で「歌に思い出があり、思い出に歌が語りかけ、そのようにして歳月は静かに流れていきます」というナレーションを必ず流しました。

 8日夜に聴いたジャズからも思い出の映像が浮かび上がりました。私が少年期に住んでいた石巻市の繁華街は、戦後ヤミ市が並んでいたところです。物心がついたころには、ヤミ市は商店街に変わり、行き交う人の肩と肩がぶつかるようなにぎわいもありました。路地を入るとダンスホールがあり、夜には赤い灯、青い灯のネオンがまぶしい世界が広がっていました。

 昼は昼でおびただしいほどの音楽が街に流れていましたし、夜は夜で また趣の違うメロディが、耳の中に入ってくるのでした。ジャズはどこから流れてきたのか、今はよく分かりませんが、8日夜の曲はどれだけの数を聴いたか分からないほどのヒットナンバーでした。

 それでいて、なぜか新鮮でした。10代と20代初めの若い大阪音大の学生さんがクラリネットだけで演奏したためでしょうか。最後の曲「シングシングシング」では足を鳴らし、手拍子でリズムを合わせていました。

 今、64歳。今後、何年生きるか分からないですが、「グレンミラー」と言ったら、「あの時、大阪音大の学生さんたちのクラリネットで聴いたあの曲か」と思い出すことでしょう。中西龍さんの言葉のように、きっと演奏会の後の同世代の男女10数人の交流も思い浮かべることでしょう。

 かつてにぎわった石巻市の中心市街地は、ここ10数年間で寂れました。そして3.11の東日本大震災。津波で街は壊滅的なダメージを受けました。いろいろな映像を浮かべながら聴いた「スウィングジャズの夕べ」でした。生涯忘れられない夜になったような気がします。

 大阪音大の学生さんたちにも、石巻での演奏会を「グレンミラー」と共に、思い浮かべてください。無理かな? でも石巻にいる人間として「大震災の現場を見て強行日程の中を演奏活動した学生さんには、石巻を忘れられない演奏地になるはず」と、私は信じています。

 とりあえず、今日はここまで。またいつか、続きを書きます。

| | コメント (0)

宮城県議会議員選挙終わる

 宮城県議会議員選挙が13日、投開票。激戦区といわれた石巻・牡鹿選挙区で現職2人が落選、波乱の結果となりました。
当 16,106 齋藤 正美 無元
当 10,695 元木 忠一 無現
当  9,028 三浦 一敏 共新
当  8,399 池田 憲彦 自元
当  7,988 坂下   賢 民現
    6,924 佐々木喜蔵 自現
    5,957 加賀 剛   民現

 トップの齋藤さんは、衆議院選に3度立候補し、いずれも民主の安住淳さん(財務大臣)に破れていますが、知名度は高いです。彼の出馬で、自民党の公認2人にどんな影響があるか、注目されました。女川町で46.4%の得票にあたる2276票を獲得し、前回トップで女川町長選挙にくら替えした須田氏の票をかなり押さえ、石巻市内でも13830票と、他を寄せ付けない強さでした。9月になってから突然出馬表明したとは思えない圧勝ぶりでした。

 元木さんは、手堅い感じでした。会派では自民党県民会議に入り、知事与党ですが、齋藤さん出馬で余り影響を受けない候補者でもありました。民主の安住さん支持者にも人脈をもち、安定した戦いだったような気がします。

 共産新人の三浦さんは、沿岸部で女川原発を抱える選挙区だけに、「脱原発」が有権者の支持を受けたようです。町内会の役員などで、地域活動で広げた保守系支持層にも入り込んだ感じです。

 池田さんは、4年間の苦労が実りましたが、低投票率も幸いしたようです。それと、トップ当選の齋藤さんや共産三浦さんの戦いぶりが、結果的に勝利を呼んだ感じにもなりました。

 坂下さんは、得票数からみれば薄氷を踏むような勝利でした。主地盤の雄勝、河北、北上などで有権者の被災が多く、支持者を掌握するのに苦労したようです。それでも、低投票率に助けられ、落選者に約1000票の差を付け、滑り込みました。

 佐々木さんは、齋藤さんのあおりをまともに食いました。加賀さんは三浦さんと居住地が同じで、大きく影響しました。佐々木さん、加賀さんは共に石巻市議からの転身で、石巻市長選にも出馬(いずれも敗退)しています。30代から政治の道に入った人です。勝負の厳しさを知り尽くした人だけに、残念な結果に終わりました。

| | コメント (0)

«久しぶりに温泉に行きます